sakuraneko30’s blog

足立区伊興5丁目に住んでいます。30年以上に渡る集団ストーカーテクノロジー犯罪の被害に遭っている山田ミナ子と言います。高校の担任に集団ストーカーのリストあげられ足立区から嫌がらせ対象者として選別され国家犯罪に巻き込まれています。私の体内には、スマートダストが入っています。それによって放射線照射が四方八方から行われ常に盗撮されトイレの便座にまでこのチップが付いています。盗撮や放射線照射は、教育者や建設会社や学生を中心に 裁き・リンチと言い一定時間ショー感覚でアプリで見られています。

原子力産業新聞の放射線映像は、私の自宅内の粒子と全く同じ映像です。

原子力産業新聞の放射線映像は、私の自宅内の粒子と全く同じ映像です。 https://www.jaif.or.jp/journal/feature/vr/234.html 原子力産業新聞 このサイトの放射線の映像と私の自宅内の粒子と全く同じです。動画を見て比べていただけたらと思います。

 

非倫理的な人体実験 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E5%80%AB%E7%90%86%E7%9A%84%E3%81%AA%E4%BA%BA%E4%BD%93%E5%AE%9F%E9%A8%93 人体実験は、日本も含めドイツ、アメリカなど第二次世界大戦の頃よりずっと前から行われています。 第二次世界大戦の前に 「T4作戦」も参照 1933年7月14日に可決された「遺伝性疾患子孫防止法(英語版)」は、遺伝的であるとされた病気を持つ人の不本意な断種(不妊手術)を合法化した。この法律は、遺伝的に欠陥があるとされた人々の不妊手術を通じて、アーリア人種の増大を促進するために使用された。17歳から24歳までの市民の1%が、法律の可決の2年以内に断種されていた。4年以内には、30万人が断種されることになった。1941年3月頃から1945年1月頃まで、アウシュヴィッツ、ラーフェンスブルックその他の場所で、カール・クローバーグ博士(英語版)による断種実験が行われた。これらの実験の目的は、最小限の時間と労力で数百万の人々を断種するのに適した不妊手術方法を開発することであった。これらの実験は、X線、手術および様々な薬物によって行われた。数千人の犠牲者が断種されている。その実験とは別に、ナチス政府はその強制的な断種プログラムの一環として約400,000人を断種した。ヨウ素と硝酸銀を含むと推測される溶液の静脈内注射は成功したが、膣出血、激しい腹痛、子宮頸癌などの副作用があるものだった。したがって、放射線治療が断種の好ましい選択となった。特定量放射線被ばくは、卵子または精子を生産する能力を破壊した。放射線投射は被害者たちを騙して実施されていた。囚人は部屋に連れてこられ、2〜3分ほどかかるアンケート用紙に記入するよう求められた。この時、放射線治療が施され、囚人たちは知らぬ間に断種されていた。そして、多くの人が激しい放射線火傷を負うことになった 日本 大日本帝国 人間を生物兵器化学兵器の実験に使用したほか、生きた万博やその他の実験に使用した日本のユニット731複合施設 日本での(非倫理的な)人体実験研究は第二次世界大戦中から始まる。それは数年間にわたって続いた。ハルビン近く(当時は中国北東部の日本の属国としての満州国)に位置していた日本軍の部隊である731部隊は、生体解剖、解体、バクテリア接種を行うことによって囚人に対して人体実験を行った。それは1932年から第二次日中戦争までの非常に大規模な流行を引き起こした[28]。また、捕虜に対して生物兵器化学兵器の実験もおこなっている。 その後の日本 「名古屋市乳児院の乳児に対する人体実験」および「新潟大学におけるツツガムシ病原菌の人体接種問題」も参照 1950年代においては、元731部隊のメンバーが囚人と精神保健患者に対し、致命的な病気を感染させていた。1958年、神戸医科大学に多数の乳児が連れて行かれ、鼻から胃に針を挿入することで砂糖を強制投与された。チューブが肛門に挿入されて、砂糖が消化器系によってどのように処理されたかを確認したものだった。幼児の多くは下痢と肛門出血を経験し、両親は彼らの子供たちが被験者として使われていることを知らされていなかった。 19世紀後半以降、アメリカでは数多くの人間実験が行われ、後に非倫理的なものとして分類されている。それらの実験においては、被験者は実験についての知識、同意、またはインフォームド・コンセントなしに違法に行われたものである。例としては致命的または衰弱している人々へ意図的に感染性の病気をもつ人々をさらす、生物・化学兵器放射線物質(人体放射線実験(英語版))や毒性物質を注入したり、外科的実験、尋問 / 拷問実験、向精神薬の投与実験、など多種多様な範囲にわたる。これらの実験の多くは子供と精神障害者に対して行われたものだった。また、多くの研究では、被験者の多くが貧困層、人種的少数派、囚人といった人々であった。多くの場合、被験者は病気の人や障害のある人であり、医師達は彼らに「治療」を受けるのだと伝えていた。彼らは知識や同意なしに有害で致命的な実験の対象として使用された。以来、これに対応して、権利擁護のアドボカシー団体および政府機関は、将来、米国において人を被験者とする研究が倫理的かつ合法的に行われることを確実にするために政策方針を決定し監視体制の構築に取り組むことになった。 第二次世界大戦中では、アメリカ合衆国メリーランド州のフォート・デトリックは、アメリカの生物戦実験の本部であった。ホワイトコート作戦は、人間対象における生物兵器の影響を観察するために、人への感染性物質の注入を行った。 1950年代-60年代 MKウルトラ計画 1971年8月 スタンフォード監獄実験 ロサンゼルス・タイムズは、1950年代から72年ごろまで、核戦争勃発を想定した被曝兵士の継戦能力を調べる目的で、シンシナティ大学の研究者が治療費を払えないがん患者80人余に大量の放射線を浴びせる実験を行ったと1994年に報じた。当時、25レム(=250ミリシーベルト)以上の照射は骨髄に危険と考えられたが、一部の患者にはこの10倍も照射され、アメリカ国防総省への実験報告に「実験で8人の死期が早まった可能性がある」「200レム(=2000ミリシーベルト)までの被曝線量であれば継戦能力はかなり維持できる」と記されたという[1]。同紙の2007年の報道によると、Eugene Saenger博士は、1960-71年、アメリカ国防総省の予算を得て、シンシナティ大学医療センターで、90人以上の貧しい黒色アメリカ人に対し全身放射線実験を行った。彼は同意書を偽造し、本人たちに知らせないまま100ラド(1000ミリシーベルトに相当)の放射線を照射した。その結果、激痛、吐き気、鼻や耳からの出血をもたらし、8~20人がこれにより死亡した。 第5回 米国における人体実験と政策 https://www.lit.osaka-cu.ac.jp/user/tsuchiya/class/vuniv99/exp-lec5.html  前回および前々回に見たように、米国はニュルンベルク裁判でナチスの人体実験を裁く一方で、日本軍の人体実験は隠蔽しました。しかしその米国の国内でも、医学の名の下にさまざまな人体実験が行われ、スキャンダルを巻き起こしました。今回は、こうした米国内の人体実験事件と、その当時の倫理的基準、および事件に対応して生みだされてきた政策に関してまとめてみます。 1. 放射線被曝実験 【Advisory Committee on Human Radiation Experiments, Final Report, Executive Summary およびアルバカーキー・トリビューン編『プルトニウム人体実験』を参照】  1993年11月15日、米国ニューメキシコ州アルバカーキーの新聞『アルバカーキー・トリビューン』は、米国の科学者たちが1945年から1947年にかけて、18人の市民にプルトニウムを注射したことを報ずる一連の記事の掲載を始めました。プルトニウムが人体に与える影響を調べるための人体実験が、米連邦政府の指示により、カリフォルニア大学、シカゴ大学ロチェスター大学の研究者の手によって、秘密裡に行われていたというのです。こうした国家的な放射線被曝実験が行われていたことは、1986年と1993年に米連邦議会の小委員会がすでに報告していましたが、アイリーン・ウェルサム記者が書いた『アルバカーキー・トリビューン』のこの長大な記事は、被験者となった人々の名前まで具体的に突き止めた最初の報道であり、全米に大きな反響を巻き起こしました。各地の報道機関も、同様の実験があちこちで行われていたことを次々に報じ、エネルギー省のオリアリー長官は記者会見で、大きな衝撃を受けたことを表明しました。その直後からエネルギー省には、被験者にされた人々やその家族・友人からの電話が何千本も殺到します。そして1994年1月15日、クリントン米大統領は「放射線被曝実験諮問委員会 Advisory Committee on Human Radiation Experiments (ACHRE)」の設置を決定し、同年4月から活動を開始しました。  この委員会は放射線被曝実験 human radiation experiments を、第一に「人間を電離放射線 ionizing radiation に意図的にさらす実験」(診断や治療など通常の日常的な医療行為による被曝は含まない)、第二に「(A) 人間の健康に対する電離放射線の影響を調べるため、あるいは (B) 電離放射線への人間の被爆の程度を調べるために計画された、環境へ人為的に放射性物質を放出する intentional environmental releases of radiation 実験」と定義しています(Federal Register 59 (13) [1/20/1994] p.2935)。この中には、実験的状況下にはない活動の結果として生じた被爆の影響を調べる研究も含まれます。そこで、ウラン鉱山の鉱夫や、核実験が行われたマーシャル諸島の住民の研究も、この委員会の調査対象になることになります(Final Report p.11)。また、この委員会が調査したのは、実験が開始された1944年から、全米研究規制法 National Research Act(後述)に従い連邦資金による人体実験の規制が制定された1974年までの放射線被曝実験と、現在行われている放射線被曝実験です。委員会は1年半にわたる精力的な活動を経て、1995年10月に、925ページにも及ぶ包括的な報告書を提出しました。  報告書によると、1944年から1974年にかけて、米国連邦政府は約4千件にもおよぶ放射線被曝実験のスポンサーになっていました。このうちのかなりの実験については記録が不完全で詳しく調べることができませんでしたが、委員会は以下の8つのカテゴリーの実験に関して事例研究を行いました。  (1) プルトニウムなど原爆関連物質を用いた実験  (2) 原子力委員会による放射性同位元素の配布プログラム  (3) 子どもを用いた非治療的研究  (4) 放射線全身照射  (5) 囚人を用いた実験  (6) 核実験と関連した人体実験  (7) 放射性物質の人為的環境放出  (8) ウラン鉱山の鉱夫とマーシャル諸島住民の観察的研究 https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-08-06/2005080612_01faq_0.html 原爆の人体実験とは?  〈問い〉 原爆開発をめぐって人体実験がされたということですが、どんな「実験」だったのですか?(滋賀・一読者)  〈答え〉 “米政府の指示で、1945年~47年、大学研究者が18人の市民にプルトニウムを秘密裏に注射していた”  1993年、米国ニューメキシコ州で、女性記者アイリーン・ウェルサムが書いた連載は、大きな反響を巻き起こしました。被験者となった人々の名前まで突き止めた最初の報道でした。これを機に、同様の実験があちこちで行われていたことが次々に明るみに出て、ついに94年1月、クリントン米大統領は「放射線被曝実験諮問委員会」を設け、翌95年10月925ページに及ぶ最終報告書をまとめます。  報告書によると、44年~74年にかけて、米政府は約4千件にもおよぶ放射線被曝実験のスポンサーになり、被験者から同意を得ないで人体実験をすすめていました。内容は、病院患者へのプルトニウム注射、精神障害児へのラジオアイソトープの投与、囚人を使った睾丸(こうがん)放射線照射、兵士による核戦争被害の実験、ウラン坑夫の被(ひ)曝(ばく)体験調査、マーシャル人の被曝体験調査・実験、シンシナティ大学でのがん患者88人におこなった全身放射線照射実験、放射線散布実験など多岐にわたりました。人体実験の材料にされたのは抵抗のできない社会的弱者でした。  この詳細は、河井智康著『原爆開発における人体実験の実相』(新日本出版社)で分析されています。河井氏はその中で、これが明るみにでた背景には多くの被害者と世論の批判があったこと、しかし同時に諮問委員会の上に米国防長官などの顧問グループがあり、政府関係者に不利なものは隠されたと推察できること、最大の人体実験でもあった「広島」「長崎」の項目はないことなどをあげています。  94年来日した元米海軍兵士A・ガリスコ氏(当時、25万人の被曝米兵の被害者の会会長)は、54年のビキニ環礁での核実験のさい、「海上には大小の艦船約百隻が爆発地点を囲むようにおかれ、何隻かの艦船には、羊、犬、猫、ネズミなどが積まれていた。それに人間も。私たちも実験材料にされた」と語りました。人体実験は、アメリカだけでなく、旧ソ連でもおこなわれ、イギリスでも50~60年代にオーストラリアの核実験場でおこなっていました。(喜)  〔2005・8・6(土)〕 私は、この各国の秘密裏で起こっている人体実験こそがこの集団ストーカーテクノロジー犯罪の正体だと思っています。 まず、私の被害ですが、もう20年以上前から集団ストーカーテクノロジー犯罪のリストに上がります。それと同時に自分の周辺で不可思議な事が起こり始めます。 そして、交際相手が工作員で盗撮をされ、職場での風評被害や病院での医師の態度、スーパーなどで万引きもしていないのにゲートがしまるなど、、トラブルなどではなくてもクレジット会社に断られ開示請求に行きましたが結局、原因がわからないままでした。6年前にパソコンを買うとハッキングされ盗撮や盗聴も薄々気づいていましたが、警察や宗教団体、民間業者や企業、病院も含んだ組織犯罪だと分かったのは、最近です。2016年自宅前の区立伊興中学校から集団で「ハゲマンコ」とあだ名を付けられ怒鳴られ始めます隣近所の保護者達まで私の自宅前で「糞マンコ」「糞ハゲ」などと言いはじめます。どんどん見知らぬ区民が嫌がらせに参加してきます。日に何度も小学生や保育園児まで「はげ」「マンコ」「自殺しろ」などと言われます。多くの見知らぬ制服の中学生が集団で同じ言葉を仄めかしてきます。旅行先の鬼怒川温泉まで見知らぬ学生達や家族に同じ言葉の暴力を受けます。2016年4月より伊興中学校の校長先生から怒ったような口調で警察に行ってくださいと言われ竹ノ塚警察署に相談するうちに実行犯は、公安だと思うようになります。その理由は、私の自宅内の様子を「知っているんだ」などと仄めかされた事。引っ越しと精神科の診察を無理矢理進めた事。「警察には悪い事をしていないが他でやったなど、、」「あなたは、今まで実に冷静に対応している」など放射線の数値の事で相談した時、私が自宅内にIC チップの基盤が付いていると伝えると「基盤はそこにあってでは、一体どこから照射していると思う」と言ってきたのです。庭でテーブルが盗まれて竹ノ塚警察署に来てもらった際認印の変わりと言って私の指紋をとっていったのです。1度だけ自宅前の伊興中学校からの暴言で110番通報した時も2名で来た警官は、無線で私を犯人のように「かなり興奮しているもようです」。と言っていました。そして、学生達の仄めかしは、お前の自宅やお前をライブ中継していると集団ではっきりと言っていました。それは、誕生日や下着の色までも仄めかされるものでした。プライバシーや人権は、一切なく執拗に 何度学年が変わっても校内から「はげ」「まんこ」「糞ハゲ」「おっぱい」「やりマン」「セックス」「悩め」「自殺しろ」など毎日のように繰り返されその嫌がらせに保護者達が加わってきました。けれどこれは、特定の誰かのせいではなく日本政府による組織犯罪でした。その為、簡単に歯の検査で測定できる体内の被爆など一切の病院や民家業者の測定も最初に依頼を受けてくれましたがその後断られました。はっきりと上から圧力がかかっているのが分かりました。そのうち4年前の嫌がらせと比例して体調不良になりここで放射線測定機を購入して自分自身に高線量の放射線があてられ人体実験も並行して行われていた事に気がつきます。アメリカでは、集団ストーカーテクノロジー犯罪の被害者は、衛星の被害を訴えていてニュースでも取り上げているのですが日本では、マスコミにも圧力がかかり決して公になる事がないのです。私は、この衛星レーダーで攻撃され監視され電化製品を操られ壊され、ハッキングされました。そして、3月9日に衛星5基の事と放射線を照射の事で竹ノ塚警察署に電話をかけたい時間後から放射線の数値がずっと高線量になり2台の測定機のガンマ線の音が鳴りっぱなしになります。立って頭を上空に向けるたびレーダーで頭部を撃たれ、寝たきりになっています。この時、急いで私を殺害する為、連日高線量の放射線をあててきましたが実家の空間線量が高くなり一時期皆体調をくずします。急いで私を殺害する為、連日高線量の放射線をあててきましたが実家の空間線量が高くなり一時期皆体調をくずします。この時、生まれて初めて船酔いのような気持ちの悪さと頭痛と吐き気が続き、微熱と水のような下痢が繰り返し続きはっきりと犯罪に気が付いた私を慌ててコロナに便乗して殺害しようとしているのが分かりました。4月11日に自宅に戻ってきましたがこの自宅こそ多くの電磁波攻撃の基盤がついた場所でした。ここに戻ってからもずっと放射線を照射されマイクロ波のパルス攻撃や電磁波攻撃がありほとんど寝たきりになっています。

このようにアメリカでは、被害者もおおくいますがマスコミが報道しています。 けれど日本は、隠蔽され様々な企業も加担している為、証拠も撮れません。 報道すらしてもらえないのです。完全犯罪になるように協力しているのです。 被害者は、力のない弱い立場の人達です。その為、ただ人体実験されるしかないのです。 そこに、衛星や軍事兵器、化学兵器、テレポートなど弱い立場の人間を徹底的に追い込む仕組みが出来上がっています。

マリ・キュリー マリア・スクウォドフスカ=キュリー(ポーランド語: Maria Salomea Skłodowska-Curie, 1867年11月7日 - 1934年7月4日)は、現在のポーランドポーランド立憲王国)出身の物理学者・化学者である。フランス語名はマリ・キュリー(Marie Curie、ファーストネームは日本語ではマリーとも)。キュリー夫人 (Madame Curie) として有名である。 1867年11月7日、ワルシャワ生まれ。放射線の研究で、1903年ノーベル物理学賞、1911年のノーベル化学賞を受賞し[1][2]、パリ大学初の女性教授職に就任した。1909年、アンリ・ド・ロチルド (1872-1946) からキュリー研究所を与えられた。 放射能 (radioactivity) という用語は彼女の発案による[3]。 娘イレーヌとその夫フレデリック・ジョリオ=キュリーの人工放射能の研究であり、夫妻は1935年にノーベル化学賞を受賞した[71]。1919年から1934年の間、研究所から発表された論文は483件になった[82]。 だが、放射能が健康へ与える悪影響も次第に明らかとなってきた。日本の山田延男は1923年から2年半、ラジウム研究所でイレーヌの助手としてアルファ線強度の研究を行い、マリの支援も受けながら5つの論文を発表した。しかし原因不明の体調不良を起こして帰国し、翌年亡くなった。マリはその報に触れ弔意を表す手紙を送っている[83]。1925年1月には別の元研究員が再生不良性貧血で死亡。さらに個人助手も白血病で亡くなった。しかし明白な因果関係や対処法にはすぐにつながらなかった。 死去 1934年のマリ。 1932年、転倒したマリは右手首を骨折したが、その負傷がなかなか癒えなかった。頭痛や耳鳴りなどが続き、健康不良が続いた[74]。1933年には胆石が見つかったが手術を嫌がった[74][84]。春にマリはポーランドを訪問したが、これが最後の里帰りとなった[33]。1934年5月、気分が優れず研究所を早く後にした。そのまま寝込むようになったマリは検査を受け、結核の疑いがあるという診断が下った[84]。 療養に入ることを決め、エーヴはマリをフランス東部のオート=サヴォワ県パッシー(英語版)にあるサンセルモス(英語版)というサナトリウムへ連れて行った。しかしここで受けた診察では肺に異常は見つからず、ジュネーヴから呼ばれた医師が行った血液検査の結果は、再生不良性貧血だった[84]。 7月4日水曜日の夜明け前、マリはフランスで亡くなった。7月6日に夫同様近親者や友人たちだけが参列した葬儀が行われ、マリは、夫ピエールが眠るソーの墓地に、夫と並んで埋葬された[84]。長期間の放射線被曝による再生不良性貧血が死因であると考えられている[85]。放射線の危険性は当時は知られていなかったため、その後開発された放射線防護策はとられていなかった[86]。マリは放射性同位体を含む試験管をポケットに入れて運んでいた[87]。マリは長年の放射線被曝によりさまざまな病気にかかり(白内障によってほぼ失明したことを含む)、ついには死に至ったが、放射線被曝による健康被害については決して認めなかった。

 

 

放射線の研究の為、自ら命を落とした化学者は、現在このような人体実験や暗殺に医療の道具が使われる事を予測したでしょうか、、